おせち料理の想い出
私が1963年に生まれたことをお知らせしないと、お話がさっぱり見えにくくなるので、致し方なく開示(笑)。ついでに年表のように1960年代のご紹介。
1959年 (昭和34年): 現上皇さま、正田家長女美智子さまとご成婚
1960年(昭和35年): 安保闘争が激化、池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出す。ダッコちゃんがブーム
1961年(昭和36年): 国民皆保険・皆年金が達成される
1962年(昭和37年): テレビの契約数が1000万台を突破
1963年(昭和38年): 名神高速道路の一部が開通
1964年(昭和39年): 東京オリンピック開催、東海道新幹線が開業。GNPが世界2位に躍進
1965年(昭和40年): 日本万国博覧会(大阪万博)の誘致決定、「いざなぎ景気」の開始
1966年(昭和41年): ビートルズ来日。ミニスカートが流行
1967年(昭和42年): 自動車のマイカーブームが到来
1968年(昭和43年): 小笠原諸島が日本に返還、三億円強奪事件発生
1969年(昭和44年): 東大安田講堂事件、共通一次試験(後のセンター試験)の導入が議論される
こんな時代背景の中でのおせち料理について、本日はご紹介したいと思います。日本はこの当時、本当に裕福にならなくては!という目標を持ちながら、ひたすら走っていたんだろうと思うのです。戦後、耐えに耐えた貧しさの中、よく働いてよく工夫して、技術革新にも貢献できる人材もいて、人々は未来をバラ色に感じていたに違いなく。


芸能人が郊外と呼ばれる多摩地区に新築の大き目の家を建てて暮らしているのがかなり当たり前になってきていました。
豊かになろうとしている中、インスタントラーメンが開発されたりもしていたし、私が小学生のときに電子レンジがようやく家庭普及し始めたのでした。その後1970年昭和45年くらいから徐々に値段が下がった感じです。
そんな小学生・中学生時代、私の家はとても貧しい部類だったので、周りの友人たちが新築の建売住宅に引っ越してきた中、賃貸の文化住宅に住んでいました。なので、お正月は父の実家に長らく「移住」する感じで、だいたい1週間から10日は滞在するのが常でした。小学校の終業式が23-25日くらいで、当時のクリスマスは日本では商業的にまだ発達途上中だったので、バタークリームのケーキでみんなが買える値段でもなく、おいしさもバラバラだったのです。

当然、おせち料理は三世代の嫁たちが作ることになっており、父の実家の台所は土間で、上がり框があってそこに普段の食卓がありましたが、そこは冬の長野では使えず、掘りごたつのある居間で食事をしたものでした。春・夏・秋の朝食と昼食はそこで食べていたんですけどね。
そして、すべての親戚やお客様を迎えるためには、上座敷は閉じたまま、中座敷と下座敷に長い台が設えられるのでした。ひとつのテーブルで8名掛けか10名掛け。子どもたちの分は質素で傷がついたものでしたが、6名掛けに子どもが10人ほど座っていた記憶があります。多いときには、大人が30名ほどで宴会をしていて、それは午前から午後の太陽が落ちるまで続いたものでした。大晦日は、父の実家がやっていた神社に移動。そこでまた宴会ではあるんですが、外に櫓が建てられ、火が熾され、元旦の日付になるまであれやこれや話しながら、待ったものでした。
子どもたちは、翌年の抱負をひねり出し、大人たちは当年の反省会を兼ねて、それでも手に手にお酒を(笑)。
そして遅く起きた翌日は、朝からおせち料理でした。が、これらを作る三代の女性たちは、本当にたいへんだったと思います。私の使命は、叔父といっしょに鯉こくと鯉のあらいのための鯉を買いに行くこと。それが料理されて屠られることについて、深く考えないようにする大晦日でしたが・・・。
現地にあるもので質素に、それでも長く保つように作られた料理の数々。正直、私はカケラも好きではなかったです。お雑煮は好きでしたが・・・。
各地でいろいろなものを食べるおせちは、最近はオーダーになってしまっていて、お取り寄せする家庭が多いです。まぁ、それだけの苦労をして作っても、人々が集わない限り、食材も無駄になってしまいますしね。いずれ、レポート形式で動画が作れるといいなぁと思っております。




